MUCHU人

「私の物の感じ方」

もうやめようと思った事

いくら質問したり、考えても答えがないものって世の中あると思います。
以前はそう思いたくなくて、必死になって色んな事を考えたり、実際に行動して答えを確かめたりしようとしていましたが、それはちょっと違うかなと思いました。
強いて言えばそれも一つの答えかも知れませんが。
だから私はそういうものについて、逐一考えたり、グルグル悩んだりするのをやめようと思っています。

例えば、人の言動を追及する事です。
あの人はなんでこうしたのかなとか、なんでそんな事を言ったんだろうとか、そういう事を人に質問したり考えたりする事です。
私自身が状況が分からない事が多いので、気にすることや質問すること自体には全く悪意はないのですが、答えが返って来ないとなんだかイライラしたりしてしまう事が実に多いです。
しまいにはこの人は何も考えていない、分かっていない、理解を示さないと何の関係もない相手を責める気持ちが湧いてきます。
こんな独り善がりは、自分でも振り返るとゾッとするけれど、実際に常にこうでした。
だけど考えてみたら、人の心理なんてそんなに簡単に出来ていないんですよね。
自分自身が自分でも良く分からなくなるぐらい、簡単に出来ていないのでそう思います。
実際にあったこととして、逆に、私の答え方が一般の人からして不思議な答えた方だったりすると、相手の方から「今何でこう答えたの?」と質問を沢山されて、困ってしまいました。
だけど、説明出来なければそれが自分の感情ではないかというと、それも違う。
なんだか相手からそう質問されて、いかにも自分の感情すら説明出来ない自分が、おかしいよ!変!と責められているような気持ちになりました。
確かにそんな事を今更!というような私ですが、だからと言って、自分の事も理論的に説明出来ないのはおかしいと自信を失うのは、あんまりなプレッシャーだなと思いました。
分からないなら答えるな、話すな、というのも、私が言われてしまえば、分からない事が多い私は一切口を開かない人間でいなければなりません。
それは、きっと私が質問した相手もプレッシャーに感じることと思いました。
きっと人の事を気にしないとは、相手のためにならないから優しくしないとか、自分自身のこともままならない癖に構うなとかではなくて、理屈じゃないことを追及しないことだと思いました。
考えたら、どんな賢者でも質問に答え続けられる人間なんていないんですよね。(質問し続けた人はいましたが…)
だって、世界の全てを知っているような人間がもしいたとしたら、一般の人も、障害者も、誰もこんなに悩んだり考えたりしながら生きてはいないですもんね。
それに、世界の全てを知っている誰かが存在するなんて、そんなつまらないことはないと思うのです。
未知の驚きとか、そんな事がまだまだあって欲しいし、それが人間の心理そのものなんだと思えば、今までこだわっていた事になんの必要性も感じなくなりました。

でも、私はよく分かっていないとか、分からない事が多過ぎるという自覚は大切に持ち続けていきたいと思います。
それは謙虚さに変わるだろうと思うし、これから支援を受けていくにあたっても、人と関わる上でも大切な気持ちだと思うからです。

多少ズレてても、ボケていると思われても、下手なりに人と関わることの方がよっぽど大切かなと思えた今日この頃です。

人に対して思う苦しさや苛立ちは、きっと自分自身のコンプレックスなんだと思います。
それを念頭に置いていれば、親とのまだ残る確執も、他にコミュニケーションの苦手な部分も、乗り越えていけるかな?と少し自分自身にホッとしている夜でした。

うん、なんか随分考え方が変わったな、私は。
もちろん良い方向で。
本当に支援ってありがたいですよ。

それでは私でした。